<沿革>宥妙寺(ゆうみょうじ)の紹介
宥妙寺のある鹿放ヶ丘周辺は、徳川幕府末期に佐倉堀田藩の砲術訓練場として利用されていました。
明治政府はこれを引き継いで砲兵の射撃学校として利用し、第二次世界大戦終戦までは陸軍砲兵学校の演習場として使われました。
終戦を迎えた昭和二十年以降、かつて下志津原といったこの二四〇〇ヘクタールの原野は、食料増産のための緊急開拓地となり、多くの入植者を迎えました。
また、現在の四街道駅周辺には、佐倉堀田藩のもとで旧旭村、旧千代田村などの古村があり、街道沿いには観音院という古い堂宇がありました。
四街道駅周辺の区画整理事業を計画する際に、開拓地の中に堂宇を移転して再建しようという要望が起こりました。
この要望と、開拓で亡くなった方々の菩薩を弔うため、佐倉生谷の専栄寺住職であった野村宥徴僧正が、昭和二十年十月に鹿放ヶ丘の地に創建したのが、鹿放山観音院宥妙寺であります。
本尊聖観世音菩薩のご加護のもと、地域の信仰を集めており、令和二年には檀信徒の寄進により本堂が、再建され、今日に至っています。
<名称>鹿放山観音院宥妙寺
<宗旨>真言宗豊山派
歴史
真言密教の歴史は、大乗仏教を大成する形で七世紀ごろのインドに始まります。
中国に伝わり体系化され、延暦二十四年(八〇五)に弘法大師(空海)が長安(現在の西安)にわたって、恵果阿闍梨(けいかあじゃり)から真言密教の教えを授かり、日本へと伝えられました。
弘法大師によって開宗された真言宗は、東寺や高野山を中心に広められ、平安末期の頃に興教大師(覚鑁)(かくばん)によってさらに新しい力が吹き込まれ、根来寺が創建されました。
鎌倉時代には、頼瑜僧正(らいゆそうじょう)によって新義真言宗が成立し、根来寺を中心に栄えましたが、戦国時代の戦渦により、専誉僧正(せんよそうじょう)はじめ多くの僧侶が根来寺を離れることになりました。
その後、豊臣秀長公に招かれた専誉僧正は、奈良の長谷寺で豊山派を興します。派名は長谷寺の山号「豊山」に由来します。
また、江戸時代、五代将軍徳川綱吉公の生母桂昌院(けいしょういん)により護国寺が建立されました。
現在は、全国に約三千カ寺を有する宗派となっています。
<ご本尊>聖観世音菩薩
<宥妙寺霊園>
墓地とは故人のお骨を土に返すための聖地です。
最愛の人の浄土を築くための聖地であることからこそ、心の支えがある寺院墓地が安心です。
お墓参りをすることは、先祖を敬うことです。
故人の冥福を祈って追善供養を行うことを「菩薩を弔う」といいますが、菩提寺とは祖先の霊の安住所であり、供養する場所であります。
祖先との心のふれあいを宥妙寺がお守りします。
<永代供養墓を建立しました>
今あるお墓を撤去し、更地にして寺院や墓地管理者に区画を返すのを「墓じまい」といいます。
墓守や墓参りの負担を減らしたり、無縁墓を避けたりする目的で近年利用者が増えています。
お墓の維持管理にかかる負担が減るほか、墓地管理費の支払いもなくなるため金銭的負担を減らすこともできます。
週刊誌等、マスコミで盛んに報じられていることもあり、宥妙寺でも檀家の皆様からお墓の継承者がいなくて困っているという相談を受けることが多くなりました。
先祖が縁あって、このお寺に墓地を建てたので、ここに永代供養墓を建立してくれれば、自分も安心できるという相談をいただいたことをきっかけに、宥妙寺も永代供養墓を建立しました。
宥妙寺では永代供養墓を建立することで、墓の継承者がいない檀家様であっても、死後にも仏教寺院が供養を継続するという点で「死後の安寧」を保証しようと考えました。
遠方にお住まいで、なかなかお墓参りに行けないとか、そろそろお墓をなんとかしなきゃいけない、あるいは何カ所も墓参りの場所があるので一カ所にまとめたいなど、いろいろとお考えの方は、いつでも住職までご相談ください。
永代供養墓
ご遺骨を土に返さず骨壺で収蔵できる納骨スペース
画像一覧
寺務所入口
寺務所入口1
寺務所入口2
観音の間
本殿1
本殿2
アサヒビール名誉顧問 中条高徳著「おじいちゃん戦争のことを教えて」に記述のある「鉄尾観音」
鉄尾観音1
鉄尾観音2
お墓1
お墓2
お墓3
公園のように明るく綺麗な雰囲気でお墓参りができる墓地
お寺の住所(アクセス)
真言宗 豊山派 鹿放山 宥妙寺(ゆうみょうじ)
〒284-0008 千葉県四街道市鹿放ヶ丘526-1
電話 043-422-4493
JR:四街道駅より徒歩22分(1.8km)
市内循環バス:鹿放ヶ丘中央バス停から徒歩4分(294m)
-墓地お問い合わせ-
有限会社 榎本石材店
〒284-0005
千葉県四街道市四街道1-4-14
電話 043-422-0309